【三星堆文明】人類起源の新たな手がかり

ミステリー

三星堆文明。シュメール、古代エジプトと繋がる超古代文明の正体とは。真実の目へようこそ。

はじめに

古代文明と聞くと、多くの方はシュメール文明、マヤ文明、古代エジプト文明などを思い浮かべることでしょう。しかし、今回ご紹介するのは、これらの文明とは一線を画す、中国の四川省で発見された神秘的な文明、「三星堆文明」です。この文明は紀元前2800年頃に現れ、紀元前1400年頃にはいつの間にかその姿を消してしまいました。驚くべきことに、遺跡で発掘された遺物から、この文明は非常に高度な技術水準を誇っており、同時期の他の地球上の文明と比べて遥かに進んでいたことが分かっています。しかし奇妙なことに、中国の四川省に存在していたこの文明ですが、その特徴は中国や東洋文明とはかなり異なり、地球の反対側に位置するシュメール文明や古代エジプト文明との類似点が多く見受けられます。さらに、発掘された頭像や彫像の外見は非常に独特で、まるで地球人ではないと言っても過言ではないほどです。この三星堆文明は一体どのような文明なのか? 彼らは何を起源として生まれ、またどこへ消えていったのか?長距離移動の手段がなかったはずの数千年前、彼らはなぜ地球の裏のシュメール文明と多くの類似点を持っていたのか?今回は、謎に満ちた三星堆文明についてお話ししていきたいと思います。

ぜひ最後までお付き合いくださいね。

遺跡の発見

1929年、中国四川省の寂れた村で、2人の農夫が水路を掘っていました。掘り進める中で、彼らは数多くの玉器を発見します。これらの美しくユニークな造形の古物を見て、彼らはそのいくつかを市場で売りに出すことにしました。その精巧な作りと独特なデザインはすぐに収集家たちの注目を集め、多くの古物商がわざわざ四川省まで買い求めにくるほど有名になりました。これがやがて政府の耳に届き、専門の考古学チームが現場に派遣され、この地域の詳細な調査が開始されました。

1934年、三星堆で本格的な発掘作業が行われ、短期間のうちに600以上の出土品が見つかりました。この発見により、この地域では私的な発掘が禁止され、「三星堆遺跡」と名付けられました。この名前は、大昔遺跡周辺にあった3つの大きな土の塚から取られており、地元の言い伝えでは、これらの土の塚がそれぞれ3つの星を指していると言われているそうです。その後、戦争のため発掘作業は中断されましたが、1982年から三星堆の発掘が再び始まります。この再発掘で、さらに多くの貴重な物が見つかり、数十年にわたる研究と復元を経て、2021年には三星堆遺跡の考古学的成果が発表されました。そして、それは非常に驚くべきものでした。

シュメールや古代エジプトとの関係

三星堆遺跡からは、多くの青銅製の頭像、仮面と彫像が出土しています。これらの頭像と彫像は、高い鼻と深い眼窩、突き出た頬骨、広い口と大きな耳を持ち、耳には穴が開けられています。考古学者たちは、これらの三星堆の像を古代中国の兵馬俑と比較したところ、両者に類似点は全く見られなかった一方、古代エジプト文明や古代マヤ文明に見られるような特徴を持っていることが分かりました。

例えば、こちらの像は、古代エジプト神話の舞踊と戦闘の神である「ベス」に似ている部分があります。また、龍のように見えるこの像は、頭の部分にはヤギの角が生えており、古代マヤ文明の「羽のある蛇」に非常に似ています。さらに、遺跡からは60枚以上の海貝と数多くの象牙が出土しています。これらの海貝は分析の結果、インド洋産であることが判明しました。しかし、三星堆が位置する中国の四川省はインド洋から4,000キロ以上離れており、象の生息地でもありません。数千年前の交通手段がない時代に、これらの海貝や象牙が三星堆にどのようにしてもたらされたのかは、今もなお謎のままです。

発掘中、考古学者たちは1本の黄金の杖を発見しました。この長さ143センチメートルの黄金の杖は、炭素年代測定によって、約5,000~6,000年前に作られたと推定されています。長い時を経て、杖の中心部分の木は炭化してしまい、現在は外側の金箔のみが残っています。この金箔には、繊細な図柄が刻まれているのが今もはっきりと確認できます。専門家はこの杖が、三星堆文明における権力の象徴であったと見ています。

しかし、古代中国の文明では権力の象徴として鼎という器が用いられていたのに対し、権杖すなわち権利を象徴する杖は古代エジプト文明で使われていたことが知られています。これは、三星堆文明が古代エジプトと何らかの関連があったことを示唆しています。この黄金の権杖が発見された直後、さらに多くの金箔が相次いで発掘されました。これほど大量の黄金製品が一箇所で見つかることは中国の考古史上前例がなく、考古学者たちはその現象に悩まされました。そもそも、人類が黄金を大量に採掘し始めたのは紀元前100年頃で、それ以前に大量の黄金製品が発見されるのは主に古代エジプトの考古学的な調査でのみだったのです。さらに、黄金の仮面をかぶった頭像も見つかり、考古学者たちはその姿に驚嘆しました。なぜなら、それはエジプトのファラオが身につけていた黄金の仮面に酷似していたからです。

これらの発掘品だけでも十分驚異的でしたが、続いて出土した品々はさらに驚きをもたらしました。考古学者たちは、青銅神樹6本、青銅製の人物立像1体、舵輪のような物体2点、奇妙に目が突き出した頭像1点と、黄金仮面をつけたさらに数多くの頭像を発掘しました。また、目のような形状の青銅器も見つかり、その形は菱形や円柱形と様々です。専門家たちは十数年の歳月をかけて青銅神樹を復元してみたところ、その樹は約4メートルの高さがあり、3層に分かれ、各層に3羽の鳥が置かれていることが判明しました。基部には蛇のような生物もいます。

興味深いことに、シュメール文明の粘土板には、「神の樹」についての描写があり、その描写はこの青銅の樹と非常に似ています。この樹については後ほどさらに詳しく解説します。

次に他の出土品を見てみましょう。この青銅製の人物立像は全高が1.72メートル、台座と帽子を含むと、全体の高さは2.62メートルもあります。特に興味深いのは、この人物像が手に何かを持っていたように見える点です。専門家の研究によれば、他の人物像には蛇のような物を持っているものがあり、蛇のような形状をした単体の器具も出土しています。これにより、この大きな立像が手にしていたのは蛇である可能性が高いと考えられます。さらに興味を引くのは、出土品の中にスカラベのような器具が含まれていたことです。スカラベは古代エジプト文明で頻繁に用いられたトーテムで、ファラオたちはお守りの代わりにスカラベを身に付けていました。これもまた、三星堆文明と古代エジプト文明に何らかの関連があることを示唆しています。

次は、これらの頭像を詳しく見てみましょう。

これらの小さい頭像は顔の特徴が変わった形状をしているとは言え、全体的には人間の顔の特徴と一致していますし、大きさも人間の頭とほぼ変わりません。しかし、こちらの2つの頭像は、その大きさが尋常ではない上、目の部分が突出した円柱形となっています。

また、唇の部分も三層構造になっています。小さい頭像が人間であるのなら、この2つの大きい頭像は一体何者なのでしょうか?

いろいろと不思議な発見が尽きませんが、考古学者たちを最も驚かせたのは、三星堆遺跡で一切の文字が見つからなかったことです。高度な青銅器の鋳造技術を持っていた三星堆文明が、文字を発明しなかったとは考えにくいです。可能性としては、彼らが意図的に文字を残さなかった、あるいは文字の記録がある媒体が全て消滅したことが考えられます。研究者たちは、この文明は中国四川に突如として現れ、約1,000年後には突然何のヒントも残さず消え去ったと言っています。興味深いことに、シュメール文明も同じく、突如として現れた文明であるとされています。また、三星堆遺跡からは人間の骨が一つも発見されていないという点も、この文明の消失に更なる神秘性を加えています。これらの出土品や不可解な発見の背後には、一体どのような真実が隠されており、この謎多き文明はどこからやってきて、そしてどこへ消えたのか?現在、これらの問いに対する考古学者からのはっきりとした答えはまだありませんが、これからは、現段階での情報を基に、僕なりの推測を試みたいと思います。

考察

先ほども触れましたが、シュメール文明の粘土板には、とある1つの神樹が記されています。この神樹は「Huluppu(フルップ)」と呼ばれ、その上にはアンズーと呼ばれる鳥が、根元には蛇が住んでいました。シュメールの人々は、この樹の神秘的な力を求め、シュメール初期王朝時代の伝説的な王であるギルガメシュが樹に住む蛇を倒し、人々は神樹を手に入れました。この樹はシュメール人にとって「生命の樹」として崇拝され、神であるアヌンナキが人類に与えなかった「永遠の命」を象徴しています。粘土板に描かれたこの「生命の樹」の特徴は、三星堆の青銅の神樹と非常によく似ています。このことから、シュメール文明と三星堆文明が共通の歴史を共有している可能性が推測できます。

次に注目すべきポイントは、三星堆遺跡で見つかった独特の目の形状です。三星堆においては、人物像にある目だけでなく、単独の目の文物も数多く発見されています。それに対して、単独の口や鼻などは見られません。これは、目が三星堆文明において非常に特別な地位を占めていたことを示唆しています。このような目への特別な描写や崇拝は、古代エジプト文明でも見られます。以前の動画でもお話しましたが、古代エジプトには目に対する特別な崇拝がありました。エジプト神話にある「ホルスの目」は、全知の象徴です。古代エジプト人は、伝説の「第三の目」を開くことができれば、神の力を手に入れることができると信じていました。

また、冒頭部分でも話しましたが、三星堆の名前は、地元の伝説に由来しており、大昔にあった三つの土の塚が三つの星を指していることを意味します。そして、古代エジプトに詳しい方ならご存知だと思いますが、エジプトの三大ピラミッドもまた、オリオン座の中心の三つの星を指しています。これらのことから、三星堆文明は古代エジプト文明と同じ伝統や文化を共有している可能性が非常に高いと思われます。以前の動画で触れたように、古代エジプト文明の源流はおそらくシュメール文明であるとされています。これで、シュメール文明、古代エジプト文明、三星堆文明の間にある関連性が浮かび上がってきます。つまり、シュメール文明が古代エジプトと三星堆の元となる文明であった可能性を導くことができるのです。

次は三星堆遺跡に話を戻しましょう。こちらの頭像には眉間部分に穴が開いており、こちらは眉間にアンテナのようなものが付いています。 そして、先ほども話した通り、この二つの頭像はそのサイズが人間の頭よりずいぶん大きいです。これは、三星堆文明に「第三の目」を持つ、人類とは異なる種族が存在していた可能性を示しているのかもしれません。興味深いことに、シュメールの神話に登場する神々、「アヌンナキ」の一族は巨人であるという描写があります。もしかしたら、三星堆遺跡にあったこの二つの巨大な頭像は、アヌンナキを象ったものなのかもしれません。しかし、残念ながら遺跡からは文字による情報がまったく見つかっていないので、これらの疑問に対する答えは遺跡からは得られていません。そのため、異なるアプローチで情報を探る必要があります。三星堆文明がかつて中国四川に存在していたとすれば、中国の古文書を調べることで、三星堆文明に関する記録が見つかるかもしれません。

三星堆遺跡がある四川省は、古代では「古蜀」という国として知られていました。古代中国には「古蜀」に関する多くの記録が残されています。その中で、三星堆文明の歴史を記録している可能性が高いのは、西漢時代に書かれた『蜀王本紀』という書物です。

この書物には、古蜀の初代から三代目の王が数百年という長寿を持ち、不死であったとされ、彼らの民は最終的に王と共に去ったと記されています。また、別の古書『華陽国志』では、最初の古蜀の王は蚕叢という人物で、彼の目は顔から突き出していたとされます。これは、三星堆から出土した青銅の頭像と一致しています。これらのことから、三星堆文明の王たちは通常の人間とは異なる外見を持ち、非常に長寿であったと推測できます。そして、この文明は後にこの地を離れ、その民も連れ去られたと考えられます。その後の中国文明が三星堆文明と全く類似点を持っていないのも、古文書にあるこの記載を証明する事実の一つかもしれません。

さらに、以前の動画で紹介されたシュメール王名表では、初代の王から数代にわたる王たちの寿命は数万年に及んでいたものの、後の代では寿命が数千年から数百年まで短くなり、最終的には通常の人間と同じようになったとあります。これは『蜀王本紀』で記された「初代から三代の蜀王が数百年生きた」という記述と似ています。三星堆の人々の特異な容姿や、「民が王と共に去った」という『華陽国志』の記述を考慮すると、三星堆文明の背後にいるのはシュメール神話のアヌンナキである可能性が考えられます。ただ、昔の地球においてシュメール文明を継承した文明は古代エジプトや三星堆だけではなかったはずです。以前の動画にもある通り、聖書にある多くの物語はシュメール神話と非常に似ています。ですので、他にもシュメール文明を継承した文明は多く存在しているはずです。もしくは、今の人類文明は全員、様々な形でシュメール文明を継承した者であると考えるべきなのかもしれません。もちろん、これらは全て僕の個人的な推測にすぎず、三星堆の真相を解明するには、さらなる研究が必要です。皆さんもご自分の意見があれば、ぜひコメント欄でシェアしてください。

それでは、今日もありがとうございました。

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