【仏教と量子力学】仏教と量子力学が示した、宇宙の根底にある真理とは?

世界の真相

仏教と量子力学。宇宙の根底にある、量子世界の“色即是空”とは?真実の目へようこそ。

仏教は、紀元前6世紀頃に「釈迦」という人物によってインドで創始された宗教です。崇拝の対象を持たないという点は、仏教が他の宗教と大きく異なるところです。釈迦が教えを説き始めてから数世紀を経て、仏教は世界中へと広がって多様な形態をとるようになり、現在はキリスト教とイスラム教に次ぐ世界宗教の1つとなっています。一方、物理学の分野の1つである量子力学は、この世界の基盤となっている原子、電子、光子などの「量子」の性質や挙動を研究する学問です。この2つの分野は、一見するとまったく関係がないように思えるかもしれません。しかし、仏教と量子力学はそれぞれの手法や考え方を用いながらも、「この世界の真の姿を探求する」という点で共通しています。まったく異なるアプローチでこの世界を探求しているにもかかわらず、仏教と量子力学には似たような世界観があるのです。仏教理論は一体何を語っているのか?それらの内容はどのような点で量子力学と似ているのか?仏教と量子力学がたどり着いたこの世界の真相とはどのようなものなのか?これらのテーマについて、今回はお話ししていきたいと思います。最初にお断りしておきますが、仏教の布教や宗教的な宣伝ではなく、あくまで哲学と科学的手法によってこの世界の真相を探求するものです。

それでは、ぜひ最後までお付き合いくださいね。

仏陀は何を悟ったのか?

歴史上の記録によると、現在のインドの近くにあった小国に生まれた釈迦という人物は、多くの苦行を経て、35歳の時に菩提樹の下で瞑想に入り、悟りに達したとされています。その後、釈迦は自分の悟った「真理」を世の中に広めることに専念しました。釈迦の死後、彼の教えを受けた者たちがその思想を特定の教義として整理し、経典を編纂したことで、それらが後に「仏教」という形になっていきます。やがて、悟りを開いた釈迦は「仏陀」と称されるようになりました。現在、仏教は大きく分けて、上座部仏教、大乗仏教とチベット仏教の三つの主要な流派があります。今回語る仏教理論は大乗仏教の理論をメインとしています。

釈迦の話でまず気になるのは、彼が一体どのようなことを悟ったのか、そしてその教えがなぜ何千年もの時を経て現代にまで伝わり、さらに仏教という世界規模の大きな宗教、あるいは哲学的体系の基礎となり得たのかという点です。

紀元2世紀から5世紀にかけて書かれた『金剛般若経』は、釈迦が生前に残した言葉を集めた経典の1つです。これは、この世界の「実相」、つまり世界の真の姿や、仏教理論の「空」という概念について語った大乗仏教の有名な経典です。この経典は、「何が現実で何が幻か?」「それは私たちにとって何を意味するのか?」そして、「人々は一見“現実”に見えるこの世界とどう向き合えばいいのか?」といった悩みを解決しようとするものです。この経典によると、私たちが体験する周りの世界や現象は、特定の条件や要因によって形作られています。

例えば、私たちの五感、感情、思考、文化、言語などが、ここで言う「特定の条件や要因」にあたります。これらの条件や要因によって、私たちは世界をある特定の方法でしか見ることができず、それが私たちの「現実」となります。しかし、このような「制限付き」の見方は、世界の本質を完全には捉えることができません。世界の本質とは、私たちの普通の考え方や、「良いか悪いか」、「あるかないか」、「自分か他人か」といったような二者択一の思考には収まらないものです。それは、私たちが日常で体験する現実の表面を超えて、宇宙や生命のもっとも根源的な部分を指し示しています。

以上が経典の内容の大まかな要約ですが、要するに、私たちはこの世界で生きている限り、自分自身の経験や体験を現実として感じるしかありません。問題は、こういった“現実”がもし本当の現実ではなく、「幻」であったとしても、私たちはそれを本当のものとして感じ取ってしまうことです。つまり、私たちの周りの物事、出来事、すべての事象は、私たちが当たり前に信じてしまうほどにリアルですが、果たしてそれらが本当に現実なのかという疑問を、釈迦は提起したのです。実は、現代物理学の父であるアインシュタインも、亡くなった友人の家族への手紙で、似たような考えを示しています。「物理学者の私にとって、過去、現在、未来は、幻に過ぎない」。

ここまでの話から、釈迦が何を悟ったのか、それが少しだけ見えてきます。端的にまとめれば、それは「世界の本質」、もしくは「真の現実」とは一体何なのか、ということです。その悟りから生まれた仏教理論の説明によれば、人々は、普段の考え方から得たものや五感で感じ取ったもの、そういった「幻」を人生の最も重要なものだと勘違いしてしまっていると言います。そしてそれこそが、人々が悩みや苦しみを感じる根本的な原因です。そこで仏教は、真の現実とは何なのか、どのようにしてそれを認識するのかという観点を中心に様々な理論を展開し、人々を苦しみから解放することを目指しました。そして興味深いことに、これらの仏教理論の内容や考え方は、現代の量子力学と重なる部分が多くあります。

量子力学と仏教の類似点

量子力学が研究しているのは、この世界の基盤となっている「量子」です。「量子」とは、物事の最小の構成単位を指します。自然界のあらゆるものは、これらの最小単位が無数に集まってできています。例えば、物質の基本単位である原子や電子、光を構成する1つ1つの光子、これらは全て量子のカテゴリに入ります。量子力学は、これら量子の性質や挙動を研究する学問です。しかし、100年くらい前に誕生した量子力学という学問は、ほかの分野と違って、研究が進めば進むほど、直感に反する不思議な発見が数多く出てきています。これは、現実世界に対する人類の理解を崩していると言えます。

どういうことかと言うと、量子が存在しているマイクロスケールの世界、もしくは「量子世界」は、私たちが普段生きているマクロスケールの世界とはまったく異なる物理法則に従っているように感じられ、「量子世界」においては、時間や空間、因果関係などの通常の概念でさえ通用しなくなるのです。

一方、仏教の世界観では、この世界には異なる現実の領域が存在し、それぞれが特有の側面を持っています。例えば、仏教理論には「色界」と「法界」という異なる領域が存在します。「色界」は、我々が生きている、体験できる世界を指します。「法界」は、究極の現実を指し、人間が生きている物理的世界の制約を超越した領域を表しています。それ以外にも他の領域が存在しますが、それらの領域の中心にあるのは「法界」です。仏教理論では、「法界」はこの世界の究極の真理を表す存在であり、物理的な世界を超越した領域とされています。ただし、「法界」は普通の手段では理解・認識しづらく、悟りを通じて得た特別な認識でしか理解できません。興味深いことに、「色界」と「法界」の違いは、古典物理学の研究する世界と、量子力学の研究する世界の違いと非常によく似ています。つまり、「色界」は、ニュートンの運動法則やその他の古典物理学の法則に従う世界と一致し、一方で「法界」は、量子力学が研究している「量子世界」と一致するように感じられます。

ここからは、仏教理論と量子力学の類似点を具体的に見ていきたいと思います。

仏教から見る粒子と波動の二重性

先ほど、「量子世界」が我々の生きている普段の世界とは全く違うものであることについてお話ししました。具体的にどう違うのか、まず挙げられるのは、物質を構成する原子や電子などの量子の存在状態が非常に不可解な点です。これらの量子は、弾丸のような安定的な粒子の状態と、水の波のような不確定な状態を両方持っています。この状態のことを、量子力学では「粒子と波動の二重性」と言います。しかし奇妙なことに、人間がこれらの量子を観測すると、量子は観測されたその瞬間に、不確定な波動状態から、弾丸のような粒子の状態、つまり確定した状態に変わります。そして観測が終わると、量子はその瞬間にまた波動の状態に戻ります。量子のこの不思議な挙動は、観測されているかどうかによって自身の状態を変えるものであり、まるで量子が意識を持っているようにも思えます。

これについてもっと深く知りたい方は、こちらの「量子力学・総集編」をご覧ください。

では、量子力学では、観測によって量子が波動の状態から粒子の状態に変わる過程を、「収縮」と言います。この「収縮」という現象を目の当たりにした物理学者たちは、今までの科学が作り上げてきた世界観を覆すものだと頭を抱えることになってしまいました。その理由として、これまでの科学の1つの根本的な考え方に、「客観的な物事の性質は、人間の主観を伴うどのような行為によっても決して変わることがない」という大前提があったからです。しかし、「量子世界」では、人間の主観的な観測行為が客観的な存在である量子の状態を変えることができてしまいます。

なぜ「粒子と波動の二重性」と「収縮」という現象が存在しているのか、その背後に隠されている根本的な原理は現時点ではまだ解明されていません。ここで注目すべきは、量子の「収縮」が人間の観測によって引き起こされているということは、この過程に人間の意識が関与していると考えられる点です。そこで、人間の意識に関して仏教理論がどのように語っているのかを見てみると、「収縮」の過程と似たようことが仏教の観念としても語られているようです。

仏教理論において、人間の意識は「想」、「行」、「識」の三つの要素で構成されるとされており、これらは意識の働きを理解するための重要な枠組みです。「想」は、人間が周りの世界をどのように認識し、理解するかというプロセスを指します。これには、五感を通じて得られる情報の処理と解釈が含まれます。この過程で、私たちの認識は過去の経験や先入観によって影響を受けることもあります。ですので、「想」によって捉える現実は人それぞれであり、これは個人的な現実を解釈するプロセスです。次に、「行」というのは、心がどう形成されるか、つまり、私たちの感情や思考、意志、行動パターンが形成される過程を指します。この過程によって形成された心、すなわち個々の反応や行動が、また私たちの見る世界を作っていきます。最後に、「識」という要素が、「意識」そのものを表しています。

では、この考え方が量子力学の「収縮」という過程とどう似ているのかを見てみましょう。人間が何らかの観測手段を使って、量子の位置、運動量、スピン、もしくはエネルギー状態などの物理量を測定すると、これらの物理量が1つでも判明した瞬間、量子はその瞬間に波動の状態から粒子の状態に変わります。つまり、私たちが何かを見たり測定したりすることで、その量子の状態、いわば、現実の一部を変えたとも言えます。

仏教の「想」、「行」、「識」の理論においては、まず「想」として、人間は見て、聞いて、感じた様々な情報を整理・区別し、そこから意味を見出します。そして、「行」と「識」によって、つまり行動や意識を通じて、現実を変えたり、作り出したりしている、ということです。このように、哲学的な面から見れば、「収縮」という人間の意識が現実を変える過程と、「想」「行」「識」を通じて現実を自ら作り出していく過程は、異なるアプローチで同じことを言っているように捉えることができます。しかし、話はこのような哲学的な側面だけに留まりません。仏教理論と量子力学の間には、さらに深いところで類似点を見出すことができます。

仏教には、「色即是空、空即是色」という有名な教えがあります。これを日本語に直すと、「色即ち空なり、空すなわち色なり」となります。この言葉にある「色」というのは、私たちが感じている物理的な現象や物質的な存在のことです。「空」というのは、現実世界の根底を形成している深い存在のことを指します。ですので「色即是空、空即是色」が言っているのは、私たちが目の前に見ている物理的な世界が、実はより深いレベルの「空」から生じているということです。これは先ほどお話しした「色界」と「法界」の違いとも関連しており、現象的な世界とその背後にある根本的な真実という二つの側面が、本質的には一つであるということを意味します。

そしてさらに掘り下げていくと、仏教理論によれば、仏は三身という3種類の身のあり方を持っています。それぞれ、「法身」、「報身」、と「応身」と言います。「法身」は、「現実の本質」や「真実の姿」を表しており、仏が持つ最も根本的な、形のない状態です。この状態は特定の場所に囚われず、空間と時間を超越した全ての現象の根底にあるとされています。そして「報身」は成仏した後の姿、「応身」は普通の人間でも理解できる姿、言い換えれば、成仏する前の普通の人間の姿です。この三身理論と量子力学との関連も考えてみましょう。法身は、「量子」が観測されていない時の状態、すなわち量子が「波動」である時の状態を表しており、「報身」は量子が「粒子」に収縮した後の状態、「応身」は数多くの量子が構成する、物質に顕現した後の状態を表していると考えられます。3つの状態はそれぞれ異なる属性や性質を持ちますが、その実質は根本的に同じ物が異なる形で表現されているだけです。

仏教から見る量子もつれ

「量子世界」で起きる数多くの不思議な現象の中で、特に「量子もつれ」という現象は有名です。それがどのような現象か簡単に説明します。1つの量子、例えば1つの電子をある手法で2つに分けます。そうすると、分けられた2つの間では、「私たちは元々1つの物だ」という、状態の共有が起きます。そこで、それらの片割れをそれぞれ2つの離れた研究室AとBに飛ばしてみます。そして、研究員が研究室Aにある片割れαを観測し、それが左回転であることが分かった瞬間、研究室Bにあるもう片方の片割れβは、その瞬間に右回転の状態に収縮します。このように、2つの片割れの状態の共有は、コインの表と裏のように、観測という行為によって1つの片割れが特定の状態に収縮した時に、もう一方の片割れの状態も必ずその瞬間に収縮します。しかも、2つの片割れの距離がどれほど離れていても、例えば1億光年離れていたとしても、この状態の共有は瞬時に起こります。

しかし、アインシュタインの相対性理論によると、光速を超えた運動や情報の伝達などという現象は、この宇宙に存在しません。そのため、このように一切の距離を無視して、光速を超えて状態が共有されるという現象は「不気味な遠隔作用」とも呼ばれており、その背後に隠れている原理や仕組みは今もまだ解明されていません。それでは、仏教理論にも量子もつれと似たような内容があるかどうか、見ていきましょう。

仏教には「縁起」という考え方があります。その意味は、「全ての物事や現象は、相互に関係し合って成立している。この世界に孤立して存在するものは一つもない」ということです。これを「色界」に存在している物事に当てはめると、例えば、花が咲くためには、太陽、水、土など色々なものが必要で、花はこれらのものがあって初めて咲くことができます。同じく、「色界」以外の領域の「法界」にも「縁起」が働いており、ここでも全てのものは他のものと繋がり合って存在しています。先ほどもお話ししたように、「法界」は世界の根本であって、この領域は量子力学が研究している「量子世界」と同じものを指している可能性があります。そして、この「縁起」の原理が「法界」にも適用されるなら、それは「量子もつれ」の概念に似たものだと考えられるかもしれません。

具体的に考えを進めてみましょう。「縁起」の概念で「量子もつれ」を解釈してみると、2つの片割れは「色界」の認識では1億光年も離れて存在していますが、「法界」では、そのような物理的な距離はまったく関係なく、これらは「縁起」によって繋がれており、1つの存在のままになっています。「色界」を見ている私たちにとっては、距離を無視した「不気味な遠隔作用」としてその現象が現れるのです。さらに、先ほどの話にあった「法身」という概念も量子もつれに関連しています。「法身」は「真実の姿」として解釈されており、それは時間や空間、個々の意識の制約を超えた存在であり、すべての現象に遍在しているとされます。この線で考えると、仏教の世界観が捉える「世界」は、本質的には1つの物、もしくは1つの全体として存在しています。偶然にも、この考え方と同様に、量子もつれに対する解釈の1つとして、「宇宙は統一された一つの存在である」と主張する考えもあります。

ここまで挙げた例の他にも、仏教の理論には量子力学と共通する点が多くあります。まったく異なるように思えるこれらの知的な営みは、それぞれ独自の方法で世界の真理を探求しており、不思議なことにとてもよく似た結論に到達しています。僕は、この一致は決して偶然ではないと思っています。釈迦は悟りを通じて世界の本質を理解し、その時代の文明レベルに合わせて、当時の人々が理解できるような言葉や比喩を使って複雑な内容を伝えようとしました。その結果、現代ではこれらは宗教や哲学に分類されていますが、もし釈迦が現代に生きていて、今の文明レベルに合わせて自身の理論を説明していたら、それはきっと科学的にも納得がいくものになるのかもしれません。では、ただ「似ている」ということに留まらず、本当に仏教理論と量子力学が同じ結論にたどり着くとしたら、2つの分野が示唆するこの世界の「真相」とは、一体どのようなものなのでしょうか?ここからは、仏教と量子力学の理論から、世界の真相がどのように導き出されるかという僕なりの考えをお話ししていきたいと思います。

究極の真実

量子力学が示唆しているのは、物事の本当の姿は私たちの目に見えている姿や頭の中で想像しているような姿とは異なる、ということです。物質世界は量子から成り立っていますが、これらの量子は、1つ1つの「物」の粒ではなく、様々な可能性を含んだ「波動」です。さらにこれらの「波動」は、実はエネルギーとして生じている、という可能性も近年の研究で示唆されています。アインシュタインも「質量とエネルギーは同じものの異なる表現であり、これは一般的な考え方にはなじみにくい」と述べたことがあります。一方、仏教理論によると、すべての現象はそれ自体に固有の実在を持つものではなく、「空」を基盤とした、お互いに依存して存在するものです。このように、2つの分野は、世界の根本的な部分に対する考え方が非常に似ています。では、もし物質が一般的に考えられているようなものではなく、実在しないものならば、物質世界はどのように生まれ、いかにして存在し続けているのでしょうか?

大乗仏教の学派のひとつである唯識派は、私たちの見る物質世界は、ただ私たちの心が作り出したものだと主張しています。一方、大乗仏教の主流的な考え方としては、私たちが日常的に経験している現実の感覚や認識は実は正確ではない、あるいは不完全であるというものです。実はこのような考え方は、量子力学の発見と非常に似ています。量子力学分野で多くの実績を残した物理学者のジョン・ホイーラーは次のような言葉を残しています。「現象は観測されるまでは本当の現象ではない」。この考え方に沿って、ホイーラーは「参加型宇宙」という概念を提唱しました。この理論によると、宇宙は単なる固有の存在ではなく、観測者の存在や行動によって形作られ、変化するものです。私たちの観測や意識が、宇宙の構造や進化に積極的に関与しており、これによって、宇宙は観測者と一体となった、「参加型」の実在として立ち現れるということになります。また、一部の物理学者は、人間の意識も量子という状態で存在しているのではないかという仮説を提唱しています。もし本当にそうであるのなら、この世界の真相は次のようなものである可能性が考えられます。

まず、現実はいくつかの層から成り立っており、ある一つの層は、別の層の中に存在しています。これらの中で最も根本的なものは、「意識」が存在している層であり、物質が存在している層は「意識」の層によって生まれています。これはここまで紹介してきた仏教理論が語っていることの集約、もしくは結論にもなっているものです。では、この結論は何らかの科学的な根拠を伴っているのでしょうか?量子力学の視点から見れば、量子の波動という状態は、必ず「意識」に感知されることを必須の条件として、やっと粒子状態、すなわち具現化された状態に変わります。そのため、「意識」の存在しない世界では、そこに具現化されたものは何ら存在しないということになります。これを拡大して考えると、意識が誕生・存在しなければ、宇宙も具現化された状態では存在しません。つまり、宇宙は私たちが観察・体験しているからこそ存在することができ、もしくは、私たちが観察・体験をするために、この宇宙は誕生した、という理解もできるのです。この意味で、仏教理論が主張している「物質が存在する層は意識の層によって生まれている」という考え方は、科学的な知見と一致する、説得力のある世界の見方だと言えます。

最後になりますが、量子力学は実験と観察に基づく経験的なアプローチを取り、宇宙が量子から成り立っていると考えています。そこから得られた様々な結論は直感に反しているものの、現段階では最も宇宙の真実に近い学問だと評価されています。一方、仏教は内省や瞑想を通じて、現実の本質について深く考察しています。両者は異なるアプローチを取りながらも、驚くほどに同じような結論に到達しています。これは、単に世界の真実が何かという疑問を提起し、議論しようとするだけのものではありません。仏教が私たちに教えてくれるのは、科学的な手法は絶対のものではなく、内省や瞑想といった方法によっても、世界を理解することができるのだということです。そして、そのような手法がいかに有意義で、大切であるかを、現実の教訓として私たちに示してくれているのです。

それでは、今日もありがとうございました。  

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