【告白】永遠の命を得た「私」の人生について

ミステリー

はじめに

私は2万年近く生きているひとりの男性です。正確にどのくらい生きていて、後どれくらいの寿命が残っているのかは、自分でも分かりません。少なくとも今はまだ老化の兆候がないので、恐らく私は永遠の命を手に入れたのだと思います。

家族を含む私と関わりのあった人達は、全員遠い昔に亡くなっています。しかし、現在生きている多くの人達は、私の一部、つまり私のDNAを受け継いでいるはずです。なぜなら、2万年前の地球に存在していた人類の数は少なく、現在の人類は全員彼らの子孫だからです。私は、その“彼ら”のうちの一人です。

物語や小説、映画などの形態で広がっている今の時代では、私はよく、不老不死に関する作品を見るようにしています。その理由は、その物語の作者は、自分と似たような存在だという可能性があるからです。しかし、残念ながらその作者たちは、全員普通の人間です。それらの作品に登場する不老不死の主人公たちは大抵、幅広い知識を持っており、目立たない程度の財産と健康な体で、一般人と変わらないような普通の生活を送っています。しかし、2万年生きている私の実体験から、不老不死の人はそのような生活を送ることができません。

今回は、永遠の命を手に入れた人間は、どのような人生を送っているのか?について私の告白を聞いてください。

物理的な面からの「私」

体は老化しないとは言え、怪我は普通にします。傷跡は数百年も経ったら薄くなり消えていきます。直近百年間にできた傷跡はやはり目立ちます。普通の人が一生に一度会うかどうかの事故は、不老不死の私にとっては、必ず起きることです。その理屈を理解した後の私は、あらゆる事故の確率を減らすために、できるだけ活動の範囲と内容を最小限に抑えて生活しています。それを意識していなかった昔の長い人生において、体のどのパーツも失っていないのは、今思えばまさに奇跡としか言いようがありません。もちろん、活動内容を最小限にした理由は他にもあります。それについては後でお話しします。

外見的な面からの「私」

私の顔立ちは少し特徴的です。今の学者たちは、数万年前の人類の見た目は、現代人類とほぼ変わらないと言っていますが、私は自分の顔を見る度に、やはり現代人類の顔と少し違っているのが分かります。そのため、私は外にいる時には常に帽子とマスクをしています。

内面的な面からの「私」

2万年も生きていれば、知っている知識は誰よりも豊富だと思っているかもしれませんが、実はそのようなことはありません。人類が様々な高度な知識を身につけたのは、直近数百年間のことです。しかし数百年前の時点の私は、とっくに好奇心や探求心、勉強の意欲をなくしています。ですので、私はどの分野においての知識の量も、現代の一般人とほぼ変わりがありません。

唯一普通の人より優れているのは、言語の分野です。十数年ごとに住む国を変えるようにしているので、それらの国の言葉を話せないと生活が困るからです。なぜ探求の意欲をなくしているのかというと、実はそれだけではなく、だいぶ昔からほとんどの意欲をなくしています。人間は、体が分泌する様々なホルモンによって意欲が湧いてきているのですが、私の体はもうそれらのホルモンをあまり分泌していないせいか、もしくは経験したことが多すぎるせいか、ほぼどんな出来事があっても私の感情を揺らすことができなくなっています。

つまり、普通の人が持っているほとんどの欲は、私の体から消えてしまっています。では、現在の私にはもう何の欲も残っていないのかというと、生きる意欲はまだ消えていません。それがはっきりと分かったのは、初めて現代の動物園に行った時の出来事でした。私は人生の初期に起きたほとんどのことを忘れています。その時の家族の顔や名前はもちろん、その時に経験していたほとんどの出来事も覚えていません。しかし、動物園でケージに閉じ込められている猛獣の姿を至近距離で目にした時に、ほんの少しの恐怖感が湧いてきました。

久しぶりに、いわゆる「感情」を感じた私は、その恐怖感がどこから来たのかを探ってみました。ぼんやりでしたが、猛獣に追われていたシーンや、人が目の前で猛獣に食べられたシーンが浮かびました。それは恐らく初期の人生に起きた出来事なのでしょう。さらにそれらのシーンを追っていくと、大昔の空気の匂いや、親しい人が捕食された後の悲しい感情も、ぼんやりとですが感じていました。その瞬間、私は久しぶりに、自分は他の人と同じくこの世に生まれてきて、この世に生きていることを実感することが出来ました。

このように、人生初期の記憶とほんの少しの感情が蘇ったきっかけは、至近距離で猛獣を目にしたことでした。それで私は分かりました。私は命を失うことが怖いのです。私にはまだ生きる意欲が残っています。それから私は、たまに動物園に行きます。猛獣を見ながら人間として生きている実感を味わうことは、今の私が持っている唯一の趣味だと言えます。

「私」が知っている歴史上の出来事

2万年も生きていれば、現在の教科書に載っている歴史は本当に起きていたか?という質問を皆さんは持っているかもしれませんが、先ほどもお話した通り、大昔の出来事は、私はすっかり忘れています。直近数百年のことに関しては、そもそも知りたい意欲もなかったので、その時に何が起きていたのかはあまり分かっていません。

しかしそのような私でも一つ言えるのは、現在の本に載っている歴史は、本当に昔起きていた出来事を伝えるためというより、争いの勝者たちが作った自分達にとって都合の良い物語にしか過ぎない、ということです。

不老不死の映画には、よく次のようなストーリーがあります。歴史書に記載されている大物の人物は、実はその映画の主人公である。私に関していえば、少なくとも直近数百年の歴史においては、私は登場していません。それより以前の歴史に関しては、何が起きていたのかは覚えていないので、何も言えません。

「私」の感情

日常生活でほぼ喋ることのない私は、言語能力が失わないように、昔は本を読むようにしていて、今は映画などを見るようにしています。なぜ映画を見る意欲があるのかと言うと、それは言語能力の維持と関わっていて、言語能力はこの現代社会で生きていくための重要な要素です。ですので、生きる意欲がまだ残っている私は、映画を見る意欲が沸きます。

そして、なぜ普段は喋らないのかと言うと、私はできるだけ誰とも関わらないようにしているからです。特徴のある顔立ちは置いておいて、意欲と感情を失った今の私は、誰から見てもかなりの変人であるはずです。それがきっかけで私の秘密がバレたら、実験室で研究対象になるのは間違いないでしょう。私が十数年ごとに生活する国を変えるのも、ここに理由があります。

ただし、もし私がいつか研究対象になった場合、人類全体の終わりもそこから始まるでしょう。考えてもみてください。私を研究することで、全ての人類が永遠の命を手に入れれば、全ての人類はそのうち、私のような感情も意欲も持たない生物になります。不老不死とは言え、原動力を失ったそのような種族が迎える未来は、絶望以外に他ならないでしょう。

「私」にとっての時間の価値

「時間は命なり、時間は金なり」。普通の人間にとっては、時間は貴重なものです。しかし私にとっては、時間は最も価値のないものです。私は時間をいくらでも無駄にすることができます。たまに動物園に行きたい時は、明日でも良いかと思ってしまいます。次の日になったら、また明日でも良いかと思います。気が付けば、もう1年、2年も経っているのに、まだ動物園には行けていません。

「私」の生きる意欲

ご覧の通り、今の私は、生きるための最低限のことしかしていません。それらのことができるのは、まだ私には生きる意欲が残っているからです。もしいつか、その意欲さえなくなったら、私はこの世から消えることができるのか?と時々考えてしまいます。2万年も生きている私は、もしかしたらどんな方法でも亡くなることができないかもしれません。その時の私にとっては、この世に存在することが今よりも苦痛になるでしょう。

さいごに

最後になりますが、身を隠して生活している私が、なぜこのような告白をしているのか?正直その理由は私自身でもよく分かりません。もしかしたら、世間に自分の正体をさらけ出し、研究者たちの研究対象になれば、この世から消える方法が見つかるかもしれない、と私の中の何かがそれを望んでいるのかもしれません。

全てフィクションです。

私はただのYouTuberを副業にしているサラリーマンです。

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