核兵器と神話。科学が挑む、繰り返される超古代文明の惨禍の謎。
真実の目へようこそ。
はじめに
人類の歴史上、核兵器は2度、実戦で使用されたことがあるという事実を、この国で生きる皆さんはよくご存じかと思います。日本に落とされた原子爆弾は2発とも、核兵器としての威力は比較的小さいものでしたが、どちらも筆舌に尽くしがたい惨劇をもたらしました。あの悪夢でさえ、核が持つ力のほんの一端でしかないのです。ではもし、核の威力を最大化した大規模な核戦争が起きたら、人類はどうなるのでしょうか?作家のゼカリア・シッチンの『地球年代記』シリーズでは、1万年以上前、エジプトで、シュメールの神ニヌルタとバビロンの守護神であるマルドゥクの間で戦争が起こったという話が語られます。「戦争が始まると、ニヌルタ軍が強力な兵器を発射し、それが爆発して一瞬にして地上に巨大な雲が立ち込め、一瞬で都市が破壊された」。これは作者であるシッチンの想像の産物だと見なされていますが、シッチン自身は、これらのエピソードはすべてシュメールの楔形文字とエジプト神話に由来するものであって、自分はこれらの断片をつなぎ合わせているだけだと主張しています。『地球年代記』で描かれている戦争は、現在のサハラ砂漠で起こったとされています。奇妙なことに、近年、科学者たちは実際にサハラ砂漠で核爆発のようなものが起こったことを示唆する痕跡を発見しました。一体、科学者たちはここで何を発見し、何を根拠にして、古代に核戦争があったかもしれないと言うのでしょうか。今回はその謎を探求していきます。ぜひ最後までお付き合いくださいね。
サハラ砂漠はアフリカ北部に位置する、現在世界最大の砂漠です。この極度の乾燥地帯には、数年間まったく雨が降らない地域もあり、そのような過酷な環境で人間が生活を営むことはほとんど不可能です。サハラ砂漠の環境がなぜこれほどまでに過酷なのか、これまで誰も疑問に思わず、この場所はあくまで最初から砂だらけの不毛な土地だったと思われてきました。しかし、科学者たちによるいくつかの発見が、この見方を少しずつ変えてきています。
謎のガラス
1998年、鉱物学者Vincenzo De Micheleは、エジプトのファラオ、ツタンカーメンの宝物を分析するという仕事を与えられました。この胸当てと思われる宝物には、中央にスカラベの形をした宝石のようなものがはめ込まれており、それが何でできているかを特定しようとMicheleが検査した結果、主にシリカという成分でできていることがわかりました。しかし、現代の人工ガラスの主成分はシリカですが、このスカラベの素材ないし成分は、現代のガラスとは異なっていました。人工ガラスにはシリカ以外の不純物はほとんど含まれていませんが、スカラベの宝石にはシリカのほかに多様な鉱物が含まれており、結晶構造も人工ガラスとは異なります。Micheleはその後の調査で、サハラ砂漠の北東部を占めるリビア砂漠にこのような黄緑色のシリカ鉱物が豊富にあることを発見し、この物質は後に「リビアングラス」と名づけられました。
それらを比較した結果、Micheleはこの宝石がリビアングラスで作られていたことを特定しました。現代の人工ガラスは工業施設で高温高圧で作られているのに、古代エジプトの時代に、このようなガラス物質を一体どうやって手に入れることができたのでしょうか?
まず考えられるのは自然環境で生成されたガラスを利用するという方法です。自然環境でガラスが生まれるパターンは2通りほど知られています。1つ目、火山の噴火によってマグマが噴出し、急速に冷却されることでガラス状の岩石構造が形成されます。2つ目、隕石が地球に衝突し、その瞬間に発生する高温が、地面の砂やその他の鉱物をガラスに変質させることがあります。
そして、そのような自然生成でもなく、工場生産にもよらない第三のガラス生成もあります。それは、核爆発によって、隕石と同じような原理で、爆発の高温が砂や鉱物をガラスに変質させるというものです。実際、核爆発の実験のたびに、爆発現場にはこのようなガラスが出現しています。それでは、リビアングラスが生成された要因にはどれが当てはまるのでしょうか?
まず大前提として、そのどれもが、そもそも常識的には否定されるとしか考えられないものです。リビアングラスが見つかるエリアの付近には噴火口がなく、「ケビラ・クレータ」という巨大隕石のクレーターと思しき地形の存在が報告されていますが、これが確かに隕石によるクレーターであるかどうかは科学的に証明されておらず、ある地質学者の調査では、あくまで風化した地層だという見解もあります。そして、最後の可能性は核爆発ですが、これも当然、常識的ではあり得ないことです。
しかし、このチャンネルをご覧の皆さんは、超古代文明の存在を思い浮かべた方も少なくないのではないでしょうか。さて、古代エジプトの宝石がリビアングラスで作られていたという事実は、遥か古代に現代文明を超えるレベルの文明があり、その時代に核爆発ないしは核戦争があったことを意味するのでしょうか?Micheleのさらなる調査によると、リビアングラスと隕石の衝突によるガラスの類似度は50%程度であった一方、核爆発によるガラスとの類似度は90%以上であることが判明しました。科学者としてこの結果は受け入れがたいものでしたが、ついにMicheleは次のような結論を出しました。
「近代文明が誕生する前、サハラ砂漠で核爆発が起きた可能性は、ある」。
サハラ砂漠
1933年、Laszlo Almasyの率いるハンガリーの探検家チームがサハラ砂漠南部の丘陵地帯で洞窟を発見しました。洞窟の壁には壁画が描かれ、さまざまな動物や川で泳いでいるような人の姿が描かれていました。この発見によって、荒涼とした土地はたちまち有名になり、多くの観光客が訪れるようになりました。しかし、壁画をめぐる疑問も数多くあります。なぜ砂漠の真ん中にある洞窟の壁画に、川辺を生息域とするはずのカバが描かれているのか?また、壁画の中の人々が本当に泳いでいるのだとしたら、この見渡す限り砂ばかりの世界のどこから川が流れて来たというのか?
そこで一つ思い至るのは、大昔のサハラ砂漠は今とはまったく異なる状態だったのではないかという推測です。1990年代、サハラ砂漠の端にある村の住民が井戸を掘っていたところ、奇妙な物体を発見しました。その物体は長さ約8メートル、幅0.5メートルあり、木でできたそれはまさにカヌーのようでした。この知らせを聞いた考古学者たちがカヌーに炭素年代測定を行ったところ、約8,000年前に作られたものだという結果が出ました。2000年には、ニジェールのサハラ砂漠でも1万年前の先史時代の遺跡が発見され、考古学者たちはこれをキフィアン文化(kiffians)と名付けましたが、彼らを一番驚かせたのは、その遺跡から貝殻が大量に出土したことです。
2007年、さらに興味深い研究結果が発表されました。『New Scientist』誌に掲載された記事によると、アメリカのボストン大学リモートセンシングセンターの研究チームが、スーダンのサハラ砂漠にかつて多くの湖が存在していたことを衛星によって発見し、さらにスーダンのダフール地方でも、サハラ砂漠の地表から100メートル以上地下にある巨大な湖を検出したと言います。画像を注意深く分析した結果、研究チームはそれが少なくとも3万平方キロメートルの集水域を持つ湖の底であると結論づけました。この湖の流域面積は、もしそれが淡水湖であったなら、おそらく現在の世界で6番目くらいにランク付けられるほどの大きさです。
しかし、5,000年前のエジプトの歴史記録を確認してみると、その時点ですでにサハラ砂漠が広がっていたと記されています。一体いつから、どんな理由で、この水と緑にあふれていたはずの大陸が砂漠と化したのでしょうか?一部の学者は、地軸の移動が気候の急激な変化を引き起こし、その結果、この地域が砂漠化したと考えています。しかし反対意見として、地軸の移動は地球規模のものであり、地軸の移動が赤道付近の森林と水の世界を砂漠に一変させたのであれば、同じ赤道付近にある南米のアマゾンの熱帯雨林の方はなぜ環境が変わらなかったのかという矛盾が指摘されています。
この発見と冒頭の『地球年代記』の話を合わせて考えると、この結論の残酷さが見えてきます。サハラ砂漠がオアシスから砂漠に変わったのは、地軸が移動したからではなく、核爆発が原因だったという仮説が浮かび上がるのです。実際に、古代の核爆発の記録や考古学的発見は、他の場所でもさまざまに見つかっています。
モヘンジョダロ
モヘンジョダロはインダス渓谷にある古代遺跡です。「モヘンジョダロ」という名は、現地の言葉で「死の丘」を意味します。この死の丘は、多くの学者によって「世界で最も謎に包まれた古代文明の都市」として認識されています。考古学者によれば、死の丘は約5,000年前に築かれました。この都市国家の文明レベルは、同時代の他の文明をはるかに上回っており、その設計は、信じられないほど厳格で完璧でした。考古学者を最も困惑させているのは、遺跡の上層部から発掘された骸骨です。文明的な都市国家であったにもかかわらず、それらの人骨はどれも墓に埋葬されておらず、まるで大量突然死による無人の世界の遺骨のようでした。ある者はうつ伏せになり、ある者は他の骨と重なり合って横たわり、ある者は身を守ろうとしてむなしく手で顔を覆い、またある者は苦痛のために体を歪めていました。
考古学者たちは、これらの人々は何らかの予期せぬ出来事によって一瞬のうちに亡くなったことが明らかだと言います。そして、同じ状況が近隣のいたるところで見られます。研究者や探検家たちは、伝染病、虐殺、集団自殺などの仮説を思いつく限り打ち出してきましたが、それらはすべて否定されました。なぜなら、住民全員の命をほとんど時間差なく一挙に奪うような伝染病は到底あり得ず、人の手による殺人行為の痕跡もなかったからです。集団自殺を想定しても、井戸で自分の持ち物を洗っている最中に死んだと見受けられる遺骨が存在するため、それも辻褄が合わないことをはっきりと物語っています。
さらに考古学者たちは、9体の白骨のうち数体に過熱の痕跡が残っているのを発見しました。常識的に考えれば、火山の噴火か隕石の衝突が原因だと想像したくなります。しかし、インダス渓谷の古今東西の地質に火山の存在は確認されていません。遺跡の近辺ではクレーターや爆発の痕も見つかっていません。では、どのような力が、異常な高温によってそこに住む人々全員を「突然死」させたのでしょうか?サハラ砂漠と同様に、これは古代で起きた核爆発によるものではないかという説があります。その威力はそこまで大きくなく、上空で爆発したため、地面に爆発の痕を残しませんでした。しかし、それでも都市や住民を一瞬で焼き尽くすには十分だったのです。
超古代文明の存在
サハラ砂漠とモヘンジョダロ、この二つの遠く離れた場所に共通する、常識を覆すような仮説は、果たしてあり得ることなのでしょうか?ここからは僕の個人的な推測です。
もし大昔に本当に核爆発があったのなら、それだけ重大な出来事について何らかの記録が残されていてもおかしくありません。そのような記録があるか探したところ、まず、古代インドの叙事詩、ヒンドゥー教の重要な文献の一つである『マハーバーラタ』に次のような戦争が記録されています。
「勇敢なアシュヴァッターマンが兵器アグネーヤ(火の矢)を発射した。この武器は凄まじい灼熱と突風を発し、大地を震わせ、川を沸騰させ、敵兵はたちまち焦げた木の幹のように焼かれた。ヴィマーナで飛行するグルカは敵に向かって火球を発射した。それは全宇宙の力を持ち、一万個の太陽のように明るい、灼熱の噴煙と炎の柱であった。動物も人間もすべて焼き殺され、食べ物はすべて毒素に汚染された」。
このように、この物語に記された情景は現実の核爆発がもたらす状況と実によく似ており、爆発の瞬間だけでなく、その後の放射能による影響まで描写されています。この記述が核爆発とあまりにも合致しているので、一部の学者は、この物語が現実の記録であり、モヘンジョダロの不可解な死体は、その結果ではないかと指摘しました。
さらに、学者たちは古代インドの文献から「カルパ」という概念を発見しました。「カルパ」は時間の単位で、43億2,000万年に相当します。仏教の「劫(こう)」という用語も、この「カルパ」に由来します。しかし、43億2,000万年を表す「カルパ」という単位は、多くの研究者を困惑させました。
このような長い時間を、古代人は一体何に使っていたのでしょうか?様々な意見がありましたが、中でも、核燃料であるウラン238の半減期は約45億年であり、これが「カルパ」の長さと非常に近いという事実は注目に値します。もしかしたら、古代インド人は既に、核燃料であるウラン238の存在とその半減期を知っており、「カルパ」は単に想像力の豊かさによる数字ではなく、高度な科学的見地で用いる単位だったのかもしれません。
ここまでは東洋の文献を探ってきましたが、次は西洋についても見てみましょう。
現代において、聖書に書かれている多くの内容はあくまで神話と見られていますが、一部は歴史的事実として確かだと認められているものもあります。次の話も、その一つかもしれません。
ある日、二人の天使がソドムという町にやって来ます。住人のロトは町の門に座って二人の天使を待っていました。天使たちが到着すると、ロトはすぐに彼らに気づき、自分の家で一晩過ごすようにと温かく招きます。ところが、町の住民が彼の家を取り囲み、天使たちをなぶりものにするため、ロトに天使たちを引き渡せと強要してきました。すると、二人の天使は手を振るだけで、今にも暴徒となりそうな住民たちの目をくらませました。
その後、二人の天使はロトに、妻と子供たちを町から連れ出すように促しました。なぜなら、天使はヤハウェの使いとしてこの町を滅ぼしに来たからです。ロトの家族は誰もこの奇妙な警告を信じず、注意を払いませんでしたが、翌日、夜が明けてから天使は再びロトに告げます。「立ち上がり、あなたの妻と子供たちを連れて、早く町から出て行きなさい」。そう言って、ロトとその家族の手を引いて町から引きずり出しました。そしてまた彼に言いました。「急いで山へ逃げよ、あなたも滅ぼされないように。決して振り返ってはならない」。すると、町から激しく煙が立ち上り、天から硫黄と火がソドムの町に降り注ぎました。町のすべての住民と生き物は逃げる間もありません。ロトの妻は天使の忠告に従わず、逃げる途中でソドムの方を振り返ってしまい、明るい閃光に照らされて塩の柱となりました。翌日、ロトが災禍に見舞われた町に目をやると、煙が窯のように立ち上っていました。
以上が聖書に記されている話です。そして現代、核兵器を手にした人類は気づきました。この物語に描かれている光景は、単にその規模や雰囲気に留まらず、具体的な描写の一つひとつに至るまで、核爆発とあまりに似ているのです。聖書に記されたこの物語からは、「マハーバーラタ」と同様に、実際に起こった可能性があると考えられるだけの要素を読み取ることができます。
当然ですが、以上の推測だけで遠い過去に核兵器が存在したと断言することはできません。しかし同時に、高度な先史文明が存在した可能性を100%否定することもできず、様々な傍証は無視できない謎として私たちの目の前にあります。私たちは「もしかしたら文明の第一世代ではないのかもしれない」ということに思いを巡らせ、先人たちの最期を今よりもっと詳しく知ろうとすることで、そこから教訓を得るべきではないでしょうか。
あるとき、アインシュタインはこのように語りました。
私は第三次世界大戦でどんな兵器が使われるのかは分からないが、第四次世界大戦なら分かる。それはおそらく石と棍棒だろう。
この言葉には、核戦争の破滅的な帰結、文明の崩壊を危惧する彼の見解が反映されています。
核戦争による自滅……それが過去繰り返されてきたことであろうと、あるいは人類史上初めてのことであろうと、どちらにしても関係なく、人類はこれを回避するために不断の努力を続けなければならないのです。
それでは、今日もありがとうございました。
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